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“RH氏の「蜆のつぶやき」の読後感”と『日記』
2008/03/29 [Sat]20:15
category:日記
”古城”に対し東西で違った対応、会津と筑前
 東京のTBS放送が最近、明治維新の犠牲者、白虎隊の自刃で有名な「会津若松城」(鶴ヶ城)陥落の悲話を汚すような番組を流したというので、一寸、ガッカリしていたが、西の筑前から古城の復活に努力する明るい話題を聞いて、ホッとした。北九州市八幡西区藤田の事業家、花田宏さんの新著『蜆(しじみ)のつぶやき』に、約四世紀前、廃城にされた「黒崎城」を、築城400年記念行事として、ベニヤ板で”再建”し、その”一夜城”をライトアップした、という微笑ましい話が載っていたからである。

「会津若松城」の歴史を”汚しかねない”舞台は、2月16日、TBSから放映された『歴史グランプリ2008、まさか!の日本史雑学クイズ・100連発!』。会津若松藩士らが長い篭城の末、「官軍に鶴ヶ城を明け渡したのは、なぜか?」という出題に対し、”正解”がナンと『糞尿が全城にタマり、臭く汚く、耐え切れなかった』からだとされている。これを見聞きしてカンカンになった会津若松市は、TBS本社に抗議状を送り、菅家(カンケ)市長は鶴ヶ城開城の理由として、(1)他藩から救援の望みが絶たれた、(2)篭城一ヶ月余で傷病兵が激増し、生活品が枯渇したことを挙げ、TBSに訂正と謝罪を求める、とイキまいた。

これに対し、北九州の花田さんらが”一夜城”を復活させた「黒崎城」の歴史は、モッと古い。玄界灘の入り江、洞海湾に臨む標高三、四十メートルの小山「城山」(別名・道伯山)に、1604年(慶長9年)築城された。その4年前、天下分け目の決戦となった”関が原の戦い”で、東軍大勝を引き出した功労者、黒田長政が筑前50余万石に封ぜられたとき、黒田藩・東側の出城としてつくられた。黒田家の重臣、井上周防乃房がその城守に任ぜられたが、1615年(元和元年)”大阪夏の陣"後、徳川幕府が「一国一城」の原則を打ち出したので、わずか11年で廃城となった。

花田さんは、丹念に史料を探し、郷土史家、前山利治さんらに相談し、山城として今も残っている松江城をモデルにして、ベニヤ板120余枚で、高さ15メートル、横幅18メートルの”一夜城”を完成させ、ライトアップした。この”一夜城”の外観などを描いたのは、八幡工業高校の生徒たちである。実は、この”一夜城”は数年前、8日間だけ”存在”しただけで、いまは元の公園に戻っているが、花田さんらは”黒崎城祭り”を毎年行い、”一夜城”を毎度、復活させたい、と願っているそうである。  

花田宏さんの『蜆のつぶやき』は、この70余年、生きてきた老事業人の人生観、事業観、家族愛などが、バランス良く書きとめられていて、感銘を与える。(R・H) 


 昨日小倉高校の三級後輩の菅原了さんが亡くなったが、先月、後輩の入江伸明さんを失い、“老少不定“とは申せ、奇しくも、了さんの通夜の日が伸さんの49日命日、世は無情。共に三人で、小倉高校の甲子園出場に際し、寄付集めをしたり、亀井光先輩の県知事出馬や柳田桃太郎先輩の参議院出馬に際し、死に物狂いで選挙運動した仲だった。
悲しいかな!寂しいかな!
八幡での親友は、Oさん、Hさん、Nさん始め数人だけになった。

テーマ:読んだ本の紹介 - ジャンル:本・雑誌

  COMMENT(1)
この記事に対するコメント
笠(リュウ)信太郎は、修猷館で緒方竹虎の後輩
出身校、小倉高校(旧制・小倉中学)に対する黒崎・老翁の愛情は、並々ではない。僕は東京の小学校、大阪の府立旧制中学を出ているが、同窓(同級)会こそ今でもやっているが、選挙などでこの組織がフル回転するようなハナシは聞いたコトがない。

九州人の九州愛、とくに筑前人の筑前愛がスゴいのかもしれないが、これは黒崎・老翁に限ったハナシではない。僕はある大新聞に35年間、勤務したが、この大新聞が名実ともに日本のナショナル・ペーパー(国運を象徴する新聞)だった戦前、この新聞を代表する存在だった緒方竹虎が、そうだった。

緒方の最終学歴は早稲田大だが、十代に学んだ福岡の修猷館中学(現同高校)の出身者を大切にした。戦中、反東条の責めを問われ割腹自殺した中野正剛への友情がその一例だが、僕が特に取り上げたいのは、戦後1960年代前半まで、世論をリ-ドした同紙論説主幹、笠(リュウ)信太郎が修猷館の後輩だった、ということである。

緒方は戦前、近衛内閣当時、やや”左派”視されていた民間の経済評論家、笠を拾い上げて、同紙の論説委員にした。軍、警察の笠・追及が激しくなるや、緒方は笠をスイスに送り、特派員通信を送らせるとともに、彼の身の安全をハカった。

笠が帰国した戦後、緒方は既にその社を離れ、政界に身を投じていたが、笠はすぐ同紙論説主幹となった。笠は社説執筆のほか『ものの見方について』などの名著を残している。

なお、もう一つ付け加えれば、戦中、内閣情報局総裁になった緒方の秘書、中村正吾(1970年ごろ同紙西部代表)も、北九州は門司の生まれである。
【2008/03/30 10:02】 URL | R.H. #- [ 編集]


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