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老いの性は「銀嶺の性」 |
2013/01/11 [Fri]08:23 category: 放言 、「青春とは人生のある時期ではなく、気の持ち方をいう」と、サムエル・ウルマンはよくぞいったり。結婚できない男たちには青春のかけらなど微塵もない。80歳を過ぎた老人たちより始末が悪い。 年輪を重ねて顔に出る皺は避けることができない。しかし、心に皺は寄せつけず、常に好奇心を抱いて感動に溢れている限り、青春の「生」は続く。そういう人の「性」のあり方も輝いている。何しろ性は生のマグマなのだから。 性が、老いゆく者や死にゆく者の心を捉えて離さない、といった実例にはこと欠かない。人間は生きてある限り性に惹かれる。性欲とは生欲であり、エロスと同義語である。その語源はエラーンであり、愛する人、信頼する人と一体になりたいという願望の意だ。 ここでもう一度思い出していただきたい。冒頭の「はじめ」にもとりあげた沢田順次郎のことば、『性は生なり、生は天なり、天の命ずるところに依り、億兆の人類に賦有せられたる精神は惟れ性なり』を。 人生を初期にさかのぼれば、生まれ落ちた赤ん坊が、いのちの営みをかけて母親の乳房にむさぼりつく。母親との乳房を介してのコミュニケーションは、栄養補給もさることながら、母と子の精神的な相互作用にとって重要だ。 それこそ、この、物と心両面の絆が、乳児の脳を発達させる。老いても同じである、連れ合いに先立たれた、とりわけヤモメ男の姿は、はた目に見てもみすぼらしい。若い頃、彩られた性体験を持たない男ほどそうである。ある高齢な女性エッセイストも、『ボケ防止に必要なのは、友人や家族の愛もさることながら、やさしい異性の愛がいちばんだ』と。 死にゆくものの心を捉えてやまない性の実例として、私がたびたび引用させていただくのは、会津八一の弟子・吉野英雄が詠んだ歌である。 『これやこの一期のいのち炎立(ほむらた)ちせよと迫れし吾妹(わがも)よ吾妹』 この歌に接すれば、性をきたないもの、いやらしいものとする輩(やから)ですら、粛然と襟を正さずにはおられまい。性とはそんなものなのである。生のマグマなのである。 さて、老いの性を、粋に「銀嶺の性」と呼ぶ人もいる。金でも銅でもなく、いつも磨いていなければ黒くさびついてしまう、と。いつも磨きをかけてさえいれば、いぶし銀の光沢を放つと。まさに言い得て妙ではないか。 ◎上記は、大脳生理学者・性科学者・京大名誉教授・大島清博士の著作から転載したもので原文のママである。 文中の短歌を書いた吉野英雄氏は、その妻がガンに犯され死ぬ前日に、夫に求めた性を書いたものである。
テーマ:愛のかたち - ジャンル:恋愛
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